とるにたらないこと

できるだけ正直に、ありのままに書きます

こうあるべき、であること

「超自我からの開放」とかいうとそれっぽく聞こえるのだけど、心理学は大学の一般教養でかじったくらいしなのでそれっぽいのは少しだけ。

 

3月半ばくらいに、結婚を前提に、お互いの親にもそう伝えて了承を得、2年半ほど一緒に住んでいた人と別れた。

で、今4月の頭。まだ一緒に住んでいる。

このことを「別れました」と報告をした友人に話すと、なぜまだ一緒に住んでいるか理解できないなどと皆口をそろえて訝しがるのだけど、実は私の個人的なきもちとして、ぜんぜん悪くないと思ってる。

 

それは「こうあるべき」を一切しなくてよくなったから。

・家はある程度綺麗に保つべきである

・料理はできたての温かいものが一番美味しいので、帰ってくる時間に合わせて用意すべきである

・冷蔵庫にはなにかしら食べられるものが置いてあり、小腹が空いた時は何か作れるようにしておくのが望ましい

・一日働いて疲れて帰ってくる人に労りの心を持ち、居心地のいい家にすべきである

・いくら生活費をすべて折半にしていても、自由な時間が多い私の方が家事を担当するのが当然である

・若い男女が共に暮らすなら、セックスはして然るべきである

・婚約者である女性は相手の両親の知る限り、良い恋人、良い未来の嫁でいるべきである

・お互いに社会人で適齢期、付き合いもほどほどに重ねてきたし、そろそろ結婚すべきである

・もちろん近い将来、子どもは産まなければならず、良い母になれる資質を持ち合わせていなければならない

 

別れます、と宣言し、これらの全てを一切をしなくてもいいんだ、と堂々していられる立場になったとたん、嘘のように心が軽くなった。というかそもそも、今まで相手はそんなことを口に出して求めてはいなかったのだけど。私が勝手にそう感じて「こうあるべき」だと思い込んでいた節は強い。だから相手にも「結婚相手としての資質」を過剰に求めすぎていたのかもしれない。

もちろん「すべき」であったり「推奨される」ことではあるのだけど、上記を一切放棄しても、家は回る。人生もまだちゃんと回ってる。これは私にとっては新大陸を見つけたくらい驚きの、新しい事実の発見だ。

 

 

お腹がすいた、眠たい、ここに行きたい、この人に会いたい、この話を聞いて欲しい、ちょっと飲みたい気分、次給料入ったらあれが欲しい、ちょっとだるいからサボろう。ああ、明日ゴミの日か。さすがに片付けるか。

 

このくらいのことでよかったはずなのに、余計なことが多すぎたのだと思う。

どこの誰かもわからない、もしかしたら空想の人だったかもしれない人間が、言ったか言わないかもわからない言葉に影響されすぎていた。さらにその声が自分がそうしなければいけないと考えたことのように思えて、とても苦しかった。

本当に自分がどうしたいのかわからなくなったので、一旦休憩。