とるにたらないこと

できるだけ正直に、ありのままに書きます

変わること

そういえば今年の3月は送別会が多かった。

 

お世話になった人、親しくして頂いた人。いままでは当たり前のようにそこに居たので「いつでも会えるからまあいいや」と思っていたのに、かなり頑張らないとその人に会うことができない、どこか知らないところへ行ってしまう。

 

でも私はそんなにも悲しくはならなくて、ああ、悲しくならないのか、と自覚すると自分の心がすっかりくすんでしまったようで罪悪感を覚える。ものごとには始まりがあって、終わりがあるのは当たり前で、この事実を駄々をこねずにすっかりと受け入れられるようになってしまった。

 

送別会。そういえば、私がそうやってきちんと送ってもらったことは、たった一度だけだった。「私の送別会」。この響きはなんとなく「私のお葬式」みたいで、妙な感じがする。私はこれまできちんとお別れをしてこなかったように思う。それまで居た場所から、別の場所へ行くことを決まった時、もしくは行かざるを得なかった時、その決定をきちんと親しい人に報告したり、周りの人達が送別会を開くための日程を調整できるほど、なにも猶予が無いくらい、バタバタしていた。

 

というよりも、多くの人にとっても「これが最後だ」と覚悟して別れることができるなんて方が少ないのではないだろうか。ちゃんとした、正式な別れの(と言ったらおかしいが)お葬式ですら、あれが本当に別れだったと認識することができるのは圧倒的に時間が経過してからのように思う。

 

 

だから「あれっきりだった」ことが多い。

 

小学校の同級生

中学時代の部活の子

高校のクラスメイト

友達の兄弟やお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん

留学先の友達とホストファミリー

10代の頃のアルバイト先の人たち

オフ会で仲良くなった人

バンドをやっていた頃の仲間

元同僚

カメラ仲間

社会人のバドミントンチームの人たち

クラブでテキーラを煽って朝まで踊り明かした友達

かつての行きつけの飲み屋の常連さんたち

好きだった雑貨屋の店員さん

同じ学部の先輩、同級生、後輩

サークルの先輩、同級生、後輩

イベントで知り合った人たち。

 

 

毎日顔を合わせ、週末ごとに集まり、愚痴を聞いてもらい、あんなに良くしてくれたのに、あれっきりだった人とはどうしてあれっきりだったのだろう。名前を思い出すことすらないあれっきりだった人たちは、今どこで何をしているのだろう。番号が変わってさえいなければ、ネット上で検索してみれば、その気になればいくらでもまた会うことができるのに、あれっきりにしたままでいいと思っている。偶然に、一定期間だけお互いの人生が重なっただけのことで、あの時のことはあの時のことだった。

 

こんなふうに昔のことを思い出すと、住む街も、日々の習慣も、行くべき先も、慣れ親しんだ言い回しも、終電の時間も、最寄りのコンビニも、全ては別の人の、別の人生だったくらいに、遠いことになってしまう。

 

これらの事々を、人々を、一度今の自分で立ち返ってみて、その場所に戻ってみると、勇気を出してあの時の人にもう一度会ってみると、ちょっと動揺するくらいに、新鮮な気持ちになる。懐かしさも含んだ、でもそれは全く新しい気持ちで、連続しないように思える過去と今との、現実感の薄さにに呆然としてしまう。

 

私は2002年から2006年の間大阪に住んでいて、その頃の大阪駅周辺は混沌と暗く、ずっとどこかで工事をしていた。私にとっての大阪は陰鬱としていて、慣れない都会の暮らしも、仕事も、やたらと賃料の高いワンルームマンションの暮らしにも、もう二度とあの場所には戻りたくないと思っていた。

 

でもつい先日、何年も連絡を取ることをやめていた、大阪での生活とその頃の私のほとんどを濃密に共有した人と、再会した。そして一緒に、2013年、まさに完成したばかりの梅田グランフロントの展望テラスで、大阪の街並みを一緒に見た。静かに涙が出た。すっかり綺麗に様変わりした梅田の風景。そこに立ち並ぶ昔からのビル。見慣れた看板。懐かしい大阪の空気。

10年前とはいろんなことが変わったこと。一方で、いくつもの変わっていないこと。それから、10年前、現実としてこの街に私たちは住んでいて、本気で生きようともがいていたこと。

 

人生が重ならなくなってしまった人たちや、立ち去ってしまった場所を「思い出」という一言で片付けてしまうことはできない。それらは私の知らないところでもしっかりと時間が進んでいて、そのことを目の当たりにすると、やっぱり泣いてしまいそうになる。

 

そして、どうして私は今ここでこんな生活をしているのか。縁もゆかりもない京都の地で。なぜか京都でふわふわと生きている私は、たぶん昔はこんな感じではなくて、長い時間かけて形成されていたみたいだ。もっと驚きなのは、今親しくしている人達だって、同じようにどこからか来て、今はいったんここで生活している。でも多分その人たちも、ずっとそうで在ったはずではないのだ。

 

なぜか縁あって出会い、お互いの人生を、今、少しだけ共有している。

 

やっぱり現実感が薄すぎる。どうやら今ここで生きている私や周りの人たちのことは全部がちゃんと地続きになっているらしい。でも、この先がどうなるかは分からないし、ずっと同じでいることはとても難しい。

 

今大切にしている生活、周りの人たち、住んでいる場所、所有している物々、これらはそのうちに、一つづつ緩やかに失うか、がらっと変わってしまう。何かを新しく獲得しても、それもまた必ず終わる。冒頭で「この事実を駄々をこねずにすっかりと受け入れられるようになってしまった。」と書いたけれど、きっとこれは自分を守るための強がりだと思う。